亀井祐子さんの「空間を場所に、またはその逆」を見てきた。今年の春に
ワンダーサイト本郷で開催されてた展覧会が心に残っていたので、亀井さんの個展はどんなだろう?と期待して
新宿眼科画廊へ。
綺麗な空間に写真が展示してある。アルミかアクリルにマウントされた写真が、さらに額装されて5枚展示してある。クリアな風景に竹馬に乗った女性(亀井さん)がボツンと立っている。クリアに写った風景はどれも静まりかえった新興住宅地。「作り物みたい」という凡庸な形容しか浮かばないぐらい、それらの住宅地は作り物みたいだった。
ここで育っていたら、私は違っていたのか?
そのような問いからテキストは始まっている。きっと亀井さんがその場を訪れて感じた違和感の表明ともいえる。きっとそこで育っていたら「私」は違っていたのだろう。だけれども、それを確認する方法は何もない。亀井さんはその個人的な違和感や問いから一気に敷衍していく
これらニュータウンは「理想」の住環境の実現を試みている(中略)この様な環境は、私達の「在り方」にどのように影響するのだろう。
個人的な問いから始まったニュータウンにたいする感情や違和を、都市設計や都市空間へと接続していく。ただ作り物の町で遊んでいるようにも見える写真が、行為の記録として、というよりも違和感の創出として浮かび上がってくる。そこからまた自らに立ち返る
体は社会文化の建造物であり、私達が体をどのように保ち動くかは、生きている空間を反映している。(中略)在り方のモードは外見や動きにかいま見ることが出来る。私達はどのようにあるべきか知っていて、理想の在り方を実現している。
と、かなり俯瞰して自らの身体性、特に都市や空間における身体性を見いだしていく。
真っ白い空間には写真が静謐に並べられている。奥の部屋ではモニターに映像が流れていて、壁には写真がマウントされずに虫ピンで刺して展示されていた。映像は川の土手でいきなり女性がダンスするもの、「アオウェン」さん(たしか?)をインタビューした作品だった。壁には建物を見上げて撮影したものを二列に並べてある。建物が抽象化されて連続しているように見える。っていうか、この写真作品は(根本的なことは違っていたとしても)同じようなことを考え、撮影していたので、かなり共感してしまった。
その向かい側の狭い空間(床の幅2mもないくらいの正方形)には、「道路のカーブ」を撮影したものがプリントアウトされ敷かれていた。狭い入り口に合わせて道の端が合わせてあったので、視線が自然と壁の方へと動く。すると、すぐに白い壁にぶち当たり、見る者はカーブの行き先が宙づりにされて、しばしその行き先を思案してしまう。
亀井さんは最後にこのように締めくくっている
体は柔軟な空間で、どんなところも居場所に変える。自分が今いる場所を、楽しもう。
すこし脱線して、「問い」と「問題化」について考えていた。考えていた、とは書いたけど、何も厳密にその差異を論じて定義するわけではない。
しばしば、社会に視線をやるとき、ある事柄を「問題化」して整理してしまうことがある。環境問題や貧困問題や政治問題など。そのような「問題化」は、人びとを題目へと惹き付ける効果があるのだろう。そしてそれらの問題は確かに存在もしている。だけれども、「問題化」したときの自らの立ち位置はどこにあるのだろうか。「問題化」した場合、問題にする側とされる側という分断線が生まれてくる。また「問題化」することによって生じる囲い込みや線引きをとおして、ジャック・ヤングの言葉を借りれば、「排除か包摂か」という方策へと向かわせる。その方策はいつも往還し、ウロボロスのように繰り返される。
たびたび同じような語り口で問題化されけれど(ある種脅し)、普段僕たちはそのような囲い込みや線引きを軽々と越えて生きている。つまり囲い込み/線引きをすることがかなり困難な状況で僕らは生きている。複雑化した状況の中で柔軟に対応し、くぐり抜けるには、自省的な問いが導きだされるのではないか。それはランシエールが示したように「労働者が『フランスの労働者はフランス市民か』あるいはフェミニストが『フランス人女性は、普通選挙の資格をもつ「フランス人」に含まれるか』」という問いの表明に近いものだろう。両者の問いは法の下では平等だけれども、現実には不平等であるというズレから発せられている。このような問いは展覧会やプロジェクトに参加するときにも必要とされる。何かを「問題化」し「改善」すること(たとえば町おこし)が、複雑な状況に対応するものではないはずだ。参加する側から、企てを起こす側から、自らを取り巻く状況に問いを発し、その現実とのズレ(あるいは欲望)から議論を生じさせ、実践=行為へと繋げていくことが必要なのだ。
さて展覧会へと話題を戻す。大中小と3つある空間は、それぞれ違う方向から見る者に、ささやかに揺さぶりをかけてくる。その上で亀井さんがテキストで最後に記した「自分が今いる場所を、楽しもう」という「フレーズ」だけでは不十分なように思った(もちろんテキストがすべてを代弁する必要はないのだけれど)。なぜなら展示自体がそれ以上の働きかけを促していたのだから(こんなに褒めてて良いのかな?笑)。それは、写真に写るニュータウンにも負けず劣らず作り物感のある、静謐な空間(インスタレーション)の中で、僕がどのように振る舞えるかを問われているように感じたから。この空間を僕は軽々と自分の居場所へと変えることはできるのか?作り物の町で、竹馬に乗った作者のように。
作品から脱線して、様々ことを思い耽っていた。我田引水的に自分の考えと作品を接続したのかもしれないけど。展覧会をみたことで、ぐるぐる考えていたことの一つのパスが導かれたようにも思った。ま、そんな展覧会の見方があったってええやん(ってなにそのオチ!)。